丸亀城下町の変遷

いまも残る城下町のかたち

現在の丸亀旧城下町には、京極家の時代に出来上がった城下町の町割りが軍隊による接収地を除いてほぼ当時のかたちで残っています。原形となるかたちが生まれた山崎氏の時代から現在までの移り変わりを整理します。

1641〜1657年(山崎氏の時代)

・生駒氏の時代を引き継ぎ、その後の城下町のかたちができる。
・西平山・北平山。御供所の三浦といわれた地区、本町、寺町ができていた南条町のあたりには既に「古町」という表示がされている。現在の中心商業地あたりは「新町」と書かれている。

(出典:新編丸亀市史)

1658~1871年(京極氏の時代)

 
・京極氏の時代、現在に残るまちのかたちは出来上がっている。この町割の大半が現在も残っている。
・絵図には遍路道に土居村のかたちがあり、金毘羅街道では農人町に京極家菩提寺である玄要寺門前が、餌差町から中府口までの街道には短冊形の町割が確認できる。
・この丸亀城郭図からは、当時の町割と敷地のかたちが現在に残り、その後の屋敷や町家など当時の建物をつくる型がその後建てられた建築物にも引き継がれていることがよくわかる。

享和2年(1802年》 出典:丸亀市歴史資料館収蔵資料

文政11年(1828年)出典:丸亀市歴史資料館収蔵資料

1901年(明治34年)

・金毘羅街道を見ると、新堀湛甫は今の位置にあり、通町は未だ堀端に抜けていない。妙法寺から堀端へのルート、富屋町のルート、本町から南条町のルートが、丸亀市内を南北に通過する艦船であったこともよくわかる。
・遍路道は中心市街地を東西に通過する幹線であり、折れ曲がる道筋は、まちの回遊性をもたらし、賑わいと変化あるまち並みをつくっていたことが想像できる。
・通町の南の横町に「上通町」の標記が確認できる。

1929年(昭和4年)

・通町は堀端に抜けている。
・国道は金毘羅街道と重なり、南条町~堀端~妙法寺前~上通町~通町を経由して、西平山からは高松街道に合流して、湾曲した街道を通り御供所から土器川を渡り高松方面に進む。
・餌差町の北から北に延びる北向き地蔵横を通る街路ができている。
・西汐入川は北に付替えられ、新町ができ福島は陸続きとなり、丸亀港はほぼ現在の姿になる。
・土居と中府あたりは市街地が広がり、富士見町あたりが埋立てられ東汐入川の河口が見える。

(資料提供:丸亀市)

1933年〜1934年(昭和8〜9年)

・昭和4年と大きな変化はないが、駅から軍駐屯地へ通町の都心の軸的性格が強く感じられる。
・丸亀城外壕の埋め立ては昭和23年(1948年)から始まる。

(資料提供:丸亀市)

1968年(昭和43年)

・市役所など公共施設は城北に移転しシビックゾーンは現在のかたちとなっている。
・丸亀停車場線と丸亀詫間豊浜線はまだ出来ていない。
・丸亀城外濠は丸亀高校南に一部が残り、渡し場より北には東汐入川が残っている。
・福島港西平山側、現在道幅が変則的に広くなる場所には護岸に荷揚場が見える。

(資料提供:丸亀市)

1972年(昭和47年)

・福島港は未だ埋め立てられていない。
・丸亀停車場線は出来ているが、北に抜けていない。丸亀詫間豊浜線は未整備。
・東汐入川の埋め立て工事が進行中である。

(資料提供:丸亀市)

1982年(昭和57年)

・丸亀停車場線が駅前につながっている。丸亀詫間豊浜線は未整備。
・地図上では、南条町や餌差町の金毘羅街道、本町や松屋町など遍路道、高松街道など、短冊型町割の町家のほとんどは残っているように見える。
・丸亀城外濠は埋め立てられ県立武道館が、東汐入川緑道公園ができている。

(資料提供:丸亀市)

2011年(平成23年)

・ほぼ、現在のかたち

(資料提供:丸亀市)